前回は、「売れるのか、売れないのか」という不動産の現実についてお話ししました。今回は、その手前にある問いです。「そもそも、この家を売ってもいいのだろうか」。
「夫がのこしてくれた家を、売るべきか、残すべきか」。「この家での思い出を、手放すことになるのかな」。そんなふうに、ひとりで、夜中に何度も考えてしまう。もしいま、そういうお気持ちでおられるなら、まずは少し深呼吸をしてください。
大丈夫です。悩むのは、それだけ大切に向き合おうとしておられる証拠です。1級ファイナンシャル・プランニング技能士・CFP®の増島正典が、実際にうかがったご相談をもとに、この迷いとどう向き合えばよいかをお話しします。
本当に大事なのは、「売る・売らない」ではありません
家を売るべきか、残すべきか。相続のご相談で、これは本当に多いお悩みです。
そして多くの方が、最初から答えを出そうとして、動けなくなります。
- 売ったら、後悔するかもしれない
- 残したら、生活が苦しくなるかもしれない
- 子どもに、嫌な思いをさせるかもしれない
どれも起こりうることです。だから、決められない。
ここでひとつお伝えしたいのは、いきなり答えを出そうとしなくていい、ということです。
なぜそう申し上げるのか。実際にあったお話を、お聞きください。
こんなことがありました
「もう歳だから、施設に入ろうと思うの」
一本の電話から、そのご相談は始まりました。
電話の主は、87歳の女性でした。Mさん(仮名)とお呼びします。静かな声でしたが、その奥に、何かを決意したような響きがありました。
初めてご自宅にうかがった日。そこは、古くても丁寧に住み継がれてきた、あたたかみのある住まいでした。
家の中には、あちこちに手すりが取り付けられていました。段差をなくす工夫も、されていました。安全に暮らそうという工夫が、家じゅうに見てとれました。
Mさんは、こうおっしゃいました。
「子どもたちにも心配かけてね。もうひとり暮らしも限界。施設に移ろうと思ってるの」
けれども、その一方で、何度もこうつぶやいておられました。
「この家には、たくさんの思い出があるのよ」
ご家族に、同席をお願いしました
私は、その日のうちに契約の話を進めることはしませんでした。
売却という重い決断をするには、ご家族の理解と同席が必要だと考えたからです。「次回は、ご家族の方もご一緒に」とご提案しました。
Mさんは少し戸惑っておられましたが、「そうね、話してみるわ」と応じてくださいました。
次の面談には、長男の方が同席されました。誠実で礼儀正しい方で、お母さまを気遣っておられる様子が印象的でした。
売却の流れ、必要になる費用、相場の考え方をご説明しました。すると、Mさんの表情に、だんだん迷いがにじんできました。
「私が決めていいことなんだけど……」
「でも、この家は私のすべてだったのよ」
言葉に詰まるMさんを前に、ご家族も私も、ただ静かに寄り添うことしかできませんでした。
印鑑を押す直前に、電話が鳴りました
それからしばらくして、Mさんから急なご連絡がありました。
「この家は私の名義なんだから、私が決める。契約したいの」
私はすぐに書類を持ってうかがいました。Mさんは署名まで済ませ、あとは印鑑を押すだけ、というところまできました。
そのとき、電話が鳴りました。
お嬢さんからでした。
電話を終えたMさんは、こうおっしゃいました。
「娘に『まだ契約するときじゃない』って言われたから、今日は押さないわ」
あの瞬間、Mさんご自身の意思が、ご家族の声で揺らいでしまったのです。
私は、お手伝いを辞退しました
その後も、「来てほしい」というお電話が何度もありました。ただし、「家族が揃っているときでなければ話ができない」という条件付きでした。
Mさんのお気持ちは日ごとに揺れ動き、その場その場で結論が変わってしまう状況が続きました。
そして私は、こうお伝えすることにしました。
「このままでは、責任あるお手伝いができません。今回は、ご縁がなかったということで」
売主の方の意思が定まらないまま話を進めることは、ご本人にとってもご家族にとっても、よい結果にならないと考えたからです。
お引き受けしていれば、仕事にはなりました。それでも、私は手を引くべきだと判断しました。
この経験から、私が学んだこと
この一件は、単なる売却のご相談ではありませんでした。高齢の方の不動産売却で本当に大切なことは、次の3つだと考えています。
1. ご本人の「本当の気持ち」は、言葉のとおりとは限りません
「売りたい」とおっしゃっていても、それが本心とは限りません。
ご家族への遠慮、焦り、寂しさ。いろいろな気持ちが混ざっていることが多いのです。
誤解のないように申し上げますが、これは、ただちに意思能力の問題ということではありません。Mさんは、ご自身の意思をしっかりお持ちの方でした。ただ、気持ちが揺れておられた。それだけのことです。そして、それは決しておかしなことではありません。
2. 法律上は本人だけで決められます。でも、実務では止まります
ここは、はっきりさせておきたい点です。
単独所有で、売却するための意思能力があるご本人であれば、法律上、原則としてご自身の意思で売却を決めることができます。単独所有の場合、ご家族の同意そのものが、売却の法律上の要件となっているわけではありません。
ただ実務では、ご家族の理解を得ないまま進めると、今回のように途中で止まってしまうことがあります。
「私の名義だから、私が決める」。単独所有で、売却するための意思能力があるという前提では、その考え方は法律上、基本的に間違っていません。それでも、実際には最後の一歩が踏み出せませんでした。法律のうえでできることと、現実に進むことは、別なのです。
3. 手続きの前に、気持ちの整理があります
契約書や手続きは、言ってしまえば作業です。その前にあるのは、気持ちの整理です。
そこを支えられるかどうかが、私たちのような立場の者に問われているのだと思います。
迷っているときに、考えてほしい3つのこと
そのうえで、いま迷っておられる方に、考えてみていただきたいことが3つあります。
その家は「資産」ですか、それとも「負担」ですか
見た目は思い出の詰まった家でも、維持費や税金、修繕費が重くのしかかっていることがあります。
冷静に、数字と向き合ってみてください。家計を圧迫しているようなら、手放すという選択が、暮らしを「守る」ことになる場合もあります。
前回お話ししたとおり、いくらで売れそうかは、一度きちんと査定を受けてみないと分かりません。売るためではなく、知るための査定です。
いまの気持ちと、これからの気持ちは、違うかもしれません
いまは手放したくない。でも、5年後、10年後もそうでしょうか。
少しだけ先の自分に、そっと問いかけてみてください。「この選択をした私は、後悔していないかな」と。
逆もあります。急いで手放したあとで、「もう少し考えればよかった」と思われることもあります。どちらに転んでもよいように、時間の余裕をつくっておくことが大切です。
一人で決めなくて、いいのです
相続の手続きも、家のことも、一人で抱え込むと重くなるばかりです。
ご親族、専門家、信頼できる方に話してみてください。「迷っている」という気持ちを口にするだけで、心が軽くなることがあります。
決めるのはご本人です。それでも、家族と話してください
Mさんの話に戻ります。
あのとき何が足りなかったのかと考えると、ご家族との話し合いが、決断より先に済んでいなかったことだと思います。
お嬢さんは、けっしてお母さまの邪魔をしたかったわけではないでしょう。知らないところで話が進んでいたことに、驚かれたのだと思います。そして、心配されたのだと思います。
第13回でお話ししたことと、同じです。先に話しておけば、防げたことでした。
ご家族に伝えるのは、「売ることに決めた」ではなくて構いません。「こんなことを考えている」で十分です。むしろ、決めてから伝えるほうが、驚かせてしまいます。
そして、もうひとつ申し上げておきます。判断能力が低下し、契約の内容や結果を理解して意思決定することが難しくなると、ご本人による不動産売却が難しくなる場合があります。第11回でお話ししたとおりです。迷える時間は、無限にはありません。ゆっくり決めていただいて構いませんが、先送りにはしないでください。
まとめ
- いきなり答えを出そうとしなくて、いいのです。迷うのは、大切に向き合っている証拠です
- 「売りたい」という言葉が、本心とは限りません。遠慮や焦り、寂しさが混ざっていることがあります
- 単独所有で、意思能力があるご本人なら、法律上は原則としてご自身の意思で売却を決められます。ただ実務では、ご家族の理解を得ないまま進めると、途中で止まってしまうことがあります
- 契約や手続きの前に、気持ちの整理があります
- その家が資産なのか負担なのか、数字で確かめてみてください。売るためではなく、知るための査定です
- いまの気持ちと、5年後・10年後の気持ちは違うかもしれません
- 決めるのはご本人です。それでも、決める前にご家族と話してください
- 判断能力が低下し、契約の内容や結果を理解して意思決定することが難しくなると、ご本人による売却が難しくなる場合があります。ゆっくりで構いませんが、先送りにはしないでください
「この家、売ってもいいのかな」。そう思われたそのときが、これからを整える一歩目です。
答えを急がず、どなたかと一緒に考えてみませんか。
個別のご相談について(無料・月5件まで)
ご相談では、いまの状況を整理し、「何を・どの順番で・どの専門家に頼めばよいか」を一緒に考えます。ご実家やお住まいについて、「いま、どれくらいで売れそうか」「売りにくい事情はないか」の見立ても、これまで見てきた例をもとに、整理してお伝えします。
「売るかどうか、まだ決めていない」という段階でも構いません。むしろ、決める前にお話をうかがえたほうが、お役に立てます。
なお、遺言書の作成や後見の申立てなど、法律上の個別判断や手続きが必要な場面は、内容に応じて弁護士・司法書士などの専門家へ、相続税の試算や申告は相続を主に扱っている税理士、不動産の売却は宅地建物取引業者へおつなぎします。私自身が、法律や税務の判断をすることはいたしません。
一人で対応しておりますので、ご返信までに2〜3日いただくことがあります。また、じっくりお話をうかがうため、月5件までとさせていただいています。
ご相談はこちら: https://lin.ee/n21qVxJ
増島正典(ますじま まさのり)
1級ファイナンシャル・プランニング技能士/CFP®認定者 / 不動産・相続コンサルタント
不動産業界32年の経験をもとに、相続・老後のお金の不安をわかりやすく解消します。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法務・税務判断を保証するものではありません。ご紹介した事例は、ご相談者が特定されないよう、内容を一部変更しています。具体的なご相談は、法律面は弁護士・司法書士、税務は税理士、不動産の売却や価格査定は宅地建物取引業者、不動産鑑定評価が必要な場合は不動産鑑定士など、内容に応じた専門家へご確認ください。

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