前回は、相続にいくらかかるのかについてお伝えしました。今回は、そもそも相続が始まる前に止まってしまうという話です。
このシリーズで何度も出てくる言葉があります。「元気なうちに」。遺言書も、生前贈与も、家族信託も、すべてこの前提の上に成り立っています。ではその前提が崩れると、具体的に何が起きるのか。今回はそこを正面から扱います。
あらかじめ申し上げておくと、これは相続対策の話であると同時に、いま現在の生活の話でもあります。1級ファイナンシャル・プランニング技能士・CFP®の増島正典が、不動産の実務で実際に止まる場面から整理します。
「資産凍結」とは、何が止まることなのか
「認知症になると財産が凍結される」という言い方をよく聞きます。ただ、この表現だけでは、何がどう困るのかが伝わりません。
はじめに、お断りしておきます。ここでいう「資産凍結」とは、法律上、すべての財産が一律に凍結されるという意味ではありません。判断能力の低下によって、ご本人による契約や、金融機関での手続きなどが難しくなる状態を、一般に「資産凍結」と呼んでいます。
実際に止まるのは、次のような場面です。
- 不動産の売却:ご自宅や、使っていない土地・建物を売ることができなくなる場合があります
- 預貯金の引き出し:金融機関がご本人の判断能力に疑いを持った場合、窓口での手続きに応じてもらえないことがあります
- 定期預金の解約、保険の契約や解約
- 遺言書の作成:判断能力がないと判断されれば、書いても無効になるおそれがあります
- 生前贈与、家族信託の契約:いずれもご本人の意思にもとづく契約なので、結べなくなります
- 大規模な修繕やリフォームの契約、施設の入所契約
ここで大事なのは、「認知症と診断された=すべてが即座に止まる」わけではないということです。程度によりますし、手続きの場面ごとに判断されます。診断名がついていても、ご自分の意思を表せる方はいらっしゃいます。
逆に、診断を受けていなくても、その契約の意味を理解できていないと判断されれば、手続きは進みません。「診断書があるかどうか」ではなく、「その場で、その契約を理解して判断できるか」が見られている、とお考えください。
なぜ、家が売れなくなるのか
ここは、私が実務でいちばん多く立ち会う場面です。
不動産の売買では、売主ご本人の意思を確認したうえで、契約と登記の手続きを進めます。ご本人の意思が確認できなければ、通常の方法では登記を進めることができません。買主も、代金を払えません。
よくあるご相談が、これです。親を施設に入れることになった。その費用をつくるために、空いた実家を売りたい。ところが、ご本人の判断能力がすでに低下していて、話が止まってしまう。
このとき、ご家族だからという理由だけで、ご本人に代わって署名することはできません。「委任状をもらえばよいのでは」と聞かれることがありますが、その時点で新たに委任するのであれば、ご本人に意思能力がなければ、その委任は有効に成立しません。ご家族が良かれと思ってなさることでも、ここは動かせません。
代理人の方とお話を進める場合
不動産の売却など、重要な財産処分に関わる取引では、委任状と印鑑証明書がそろっているというだけで、先へ進めることはありません。その委任状が、本当にご本人の意思にもとづいて用意されたものかどうかを、不動産会社が確かめる必要があるからです。
- 委任状(実印の押印)と印鑑証明書に加えて、代理人ご自身の本人確認書類(運転免許証など)をご提示いただきます
- 契約の前に、不動産会社からご本人へ、お電話やビデオ通話などで直接、売却・媒介の意思と、委任の事実を確認します
- ご病気や海外にお住まいなど、同席や対面が難しい事情がある場合も、事前の確認は欠かせません
これは、私がこの仕事を始めたときから変わらない、実務上の原則です。万が一、ご本人の意図しない形で作られた委任状だった場合、その契約は無権代理となり、ご本人に効力が及びません。買主との契約まで進んでしまえば、後から損害賠償の問題に発展するおそれもあります。
「前にもらった委任状があるから大丈夫」とは限りません
登記の場面でも、ご本人の意思は確認されます。
残金の決済、引渡しの手続き、所有権移転登記。この場に登記名義人が立ち会えない場合には、司法書士が事前にご本人の意思や本人確認を行ったうえで、登記に必要な手続きを進めます。
私自身も、媒介契約を結ぶときには、登記名義人と直接お会いするようにしています。とくに「親の家を売りたい」というご相談をいただいた際には、直接お会いできるようお願いしています。他県の施設に入っておられるとご説明があった場合でも、ご家族の許可と立会いをお願いして、会いに行きました。
こんなことがありました
ある代理人の方が、こうおっしゃいました。「これは、本人に意思能力があるときにもらった委任状と印鑑証明書だ。だから有効なはずだ」
私は司法書士に確認しました。返ってきた答えは、こうです。
今回の登記申請について、いまの時点で有効な代理権があるかどうかを確認する必要がある、というものでした。そのうえで、いまご本人に判断能力がなく、ご本人に代わって手続きをする必要があるのであれば、成年後見制度を利用することになります。売ろうとしているのがご本人の居住用不動産であれば、売却には家庭裁判所の許可が必要になります。
そのとおりご説明したところ、その方は怒り出してしまい、「他社で売却する」とおっしゃってお帰りになりました。
お気持ちは分かります。ただ、これは会社ごとの方針ではなく、手続きの決まりです。どちらにお持ちになっても、確認すべきことは同じです。
以前に作成された委任状があるからといって、それだけで現在の不動産売却や登記が進められるとは限りません。委任状の内容、作成されたときの状況、いま代理権があるかどうかを確認する必要があります。また、登記の手続きでは、司法書士による本人確認・意思確認が重要になります。
「委任状があるからいいでしょ」
ご本人の意思表示が必要であることをご説明して、会わせていただけるようお願いしても、応じてくださらない方もいらっしゃいました。
正直に申し上げます。「印鑑証明書付きの委任状があるからいいでしょ」とおっしゃる方に限って、ご本人の意思能力に問題があることが多かったです。
会わせていただけた場合も、意思の確認をしたあとに契約書へ署名をお願いすると、お名前が書けない方が多くいらっしゃいました。主治医の先生に面談をお願いすると、「不動産の売買について判断することは難しい状態です」と言われることが多かったです。
認めたくない、というお気持ち
ご家族の立場に立って考えると、親に意思能力がないと認めたくないというお気持ちは、よく分かります。
ただ、そのままでは売却は進みません。ご本人に代わって売却手続きを進めるためには、成年後見制度の利用が必要になることがあります。
そこから、半年ほどかかっていました
期間は、案件によって大きく異なります。そのうえで申し上げると、私が関わった案件では、成年後見の手続きと登記が完了するまでに、半年ほどかかっていました。そこから、ようやく売却のスタートです。
そして、購入されるお客様が見つかったあとも、すぐには終わりません。家庭裁判所の許可が得られることを条件として、売買契約を結んでいました。買主の側にも、その結果を待っていただくことになります。
「施設の費用が必要だから、実家を売りたい」というご相談をいただいてから、実際にお金になるまでには、それだけの時間がかかるということです。介護の費用は、その間も待ってくれません。
判断能力が低下したあとの、主な制度が法定後見です
では、止まってしまったらどうするか。このときに使える制度は、原則として成年後見制度(法定後見)です。何も準備をしていなかった場合、判断能力が低下したあとにご本人に代わって法律行為を行うための主要な制度が、この法定後見になります。
3つの類型があります
ご本人の判断能力の程度に応じて、3つに分かれます。
- 後見:判断能力が欠けているのが通常の状態の方
- 保佐:判断能力が著しく不十分な方
- 補助:判断能力が不十分な方
手続きは、ご本人の住所地を管轄する家庭裁判所への申立てです。申立てができるのは、ご本人、配偶者、四親等内の親族、市区町村長などとされています。
申立てにかかる費用
ここは、第10回と同じ考え方で分けられます。金額が決まっている実費と、後から継続して発生するものです。
- 申立ての手数料:収入印紙800円(保佐・補助で代理権などの付与もあわせて求める場合は、別途必要になることがあります)
- 登記の手数料:収入印紙2,600円
- 連絡用の郵便切手:家庭裁判所によって金額が異なります
- 診断書の作成費用:医療機関によって異なります
- 鑑定が必要とされた場合の鑑定費用:鑑定が実施されるのは一部の事案です。必要になった場合の費用は、事案によって異なります
申立てそのものの実費は、思われているほど高くありません。本当に効いてくるのは、この先です。
後見人等への報酬は、続きます
後見人などが選ばれると、その方への報酬が発生することがあります。報酬は、自動的に発生するものではありません。家庭裁判所に報酬付与の申立てをして、家庭裁判所が審判をした場合に、ご本人の財産から受け取ることになります。
金額は、家庭裁判所が、その事案に応じて決めます。管理する財産の額や、行った事務の内容によって変わるとされています。家庭裁判所によっては、報酬額の目安を公表しています。
ここで押さえていただきたいのは金額そのものよりも、これが一度きりではなく、継続して発生するという点です。ご本人の判断能力が回復するなどの事情がない限り、原則としてご本人が亡くなるまで続きます。10年、15年と続くこともあります。長期間続けば、報酬などの負担が累積することもあります。
誤解されやすい、2つのこと
① 親族が後見人に選ばれるとは限りません
「長男の私が後見人になります」と申立てをされても、誰を選ぶかを決めるのは家庭裁判所です。候補者を挙げることはできますが、そのとおりに選ばれる保証はありません。
事案によっては、弁護士・司法書士・社会福祉士などの専門職が選ばれることがあります。財産の額が大きい場合や、ご親族の間で意見が分かれている場合などは、とくにそうです(選任の状況は、最高裁判所が毎年公表している資料で確認できます)。
専門職が選ばれること自体は、悪いことではありません。ただ、「家族のことは家族で決める」という感覚とは、かなり違う状態になります。大きな支出をするたびに、第三者に説明することになります。
② 一度始めると、原則としてやめられません
これがいちばん重い点だと思います。「家を売るために後見人をつけて、売れたら終わりにする」ということは、できません。
成年後見は、ご本人の判断能力が回復するなどの事情がない限り、ご本人が亡くなるまで続きます。その間、家庭裁判所の審判により、後見人などへの報酬が継続して発生する場合があります。「思っていたのと違った」という理由で、やめることはできません。
後見人を交代させたいという場合も、正当な理由があるかどうかを家庭裁判所が判断します。制度を使い始める前に、ここを知っておいてください。
なお、成年後見制度については、令和8年6月17日に「民法等の一部を改正する法律」(令和8年法律第45号)が成立し、6月24日に公布されました。後見と保佐の制度を廃止して補助の制度に一元化し、ご本人にとって必要な範囲で利用できるようにする、という大きな見直しです。
施行は、公布の日から2年6か月を超えない範囲内で政令で定める日とされています。まだ先ですので、この記事では現行の制度を前提に説明しています。実際に制度を利用される際には、その時点の最新の情報をご確認ください。
いま起きているご相続や、いま必要になった手続きは、いまの制度で進みます。施行の日がいつになるかも、まだ分かりません。ただ、変わることは、すでに決まっています。内容が分かっているのですから、早めにお伝えしておきたいと思っています。
なお、この改正法では、遺言の制度についても見直しが行われています。こちらは、別の回で取り上げます。
後見人がついても、できないことがあります
「後見人をつければ、あとは何とかなる」と思われがちですが、そうではありません。後見人の役割は、ご本人の意思を尊重し、生活や療養・介護などにも配慮しながら、ご本人の財産を適切に管理し、必要な法律行為を行うことです。あくまでご本人の利益のためのものであり、ご家族の利益や、単なる相続税対策を目的として行うものではありません。
- 相続税対策としての生前贈与は、原則としてできません。ご本人の財産が減るからです。「毎年の贈与を続けていたのに、後見が始まって止まった」という例があります
- ご本人の居住用不動産を売るには、家庭裁判所の許可が必要です。これは法律で定められています。許可を得るには、なぜ売る必要があるのかを説明することになりますので、時間がかかります。なお、施設に入っておられて現に住んでいない場合でも、それまでお住まいだったご自宅は、居住用不動産にあたると判断されることがあります(ご本人が戻られる可能性が残っているためです)。居住用にあたるかどうかは、はじめに確認しておくところです
- 投資や、収益物件の新たな購入などは、ご本人の財産を守るという制度の目的から、慎重な判断が必要になります
第3回でお伝えした生前贈与も、第5回でお伝えした不動産の整理も、判断能力があるうちにしかできないのは、このためです。
元気なうちなら、選べます|任意後見
ここからが、生前対策の話です。判断能力があるうちであれば、「誰に、何を任せるか」を自分で決めておくことができます。それが任意後見です。
- 判断能力があるうちに、ご自身が選んだ方と、公正証書で任意後見契約を結びます
- 判断能力が低下したあと、家庭裁判所が任意後見監督人を選任して、はじめて効力が生じます
- 公正証書の作成にかかる手数料などは、法令で定められています(公証役場でご確認いただけます)
- 効力が生じたあとは、家庭裁判所の審判により、任意後見監督人への報酬が発生する場合があります
法定後見との最大の違いは、任せる相手と、任せる内容を、自分で決められるという点です。信頼できるご家族などを、任意後見人として指定することもできます(法律で定められた事由に当たる方は、任意後見人になれません)。
実務では、次のような契約と組み合わせることがあります。
- 見守り契約:定期的に連絡を取り、判断能力の低下に気づけるようにしておくもの。任意後見は、始めるタイミングを誰かが判断しなければ動きません
- 財産管理等の委任契約:判断能力はあるけれど、体が思うように動かない、という時期に備えるもの
- 死後事務委任契約:亡くなったあとの手続きを頼んでおくもの(第8回でお話ししたおひとりさまの備えと重なります)
家族信託との使い分け
第6回でお伝えした家族信託と、どう違うのかを聞かれます。ごく大きく分けると、次のようになります。
- 家族信託:財産の管理と承継の仕組みです。あらかじめ決めた財産について、託された方が管理・処分できます。不動産の売却や組み替えに向いています
- 任意後見・法定後見:ご本人を支える仕組みです。財産の管理に加えて、施設の入所契約や、介護サービスの契約など、生活や療養に関する法律上の手続き(身上保護と呼ばれます)を支えることができます
家族信託は、基本的に信託財産の管理・処分の仕組みであり、成年後見制度のように、ご本人の生活や療養・介護に関する法律行為全般を支える制度ではありません。逆に、信託した財産の機動的な管理は、後見にはなじみません。ですから、両方を組み合わせるという考え方もあります。どちらか一方が優れている、という話ではありません。
費用も手間もかかりますので、ご家族の状況と、財産の中身によって、向き不向きが変わります。ここは、実際に手がけている専門家に相談して決めるところです。
元気なうちにできる5つ
- ① 判断能力があるうちにしかできないことを知っておく:遺言書、生前贈与、任意後見、家族信託、不動産の整理。すべてここに入ります
- ② 任意後見を検討しておく:必要になったときに使えるよう、元気なうちに考えておくことです。「誰に頼むかを自分で決められる」のは、今だけです
- ③ 口座を整理し、在りかを家族に伝えておく:使っていない口座を減らすだけでも、あとの手間が変わります
- ④ ご自宅を将来どうするかを、家族と話しておく:売るのか、住み続けるのか。ご本人の希望を、判断能力があるうちに聞いておくことに意味があります。売る可能性があるのなら、ご本人がご自分で判断できるうちに、一度、査定だけでも受けておくと、いざというときの動きがまったく違います
- ⑤ 相談先を持っておく:かかりつけの医療機関、地域包括支援センター、そして財産のことを相談できる先。困ってから探すと、間に合わないことがあります
まとめ
- 判断能力が低下すると、不動産の売却、預貯金の引き出し、遺言書の作成、生前贈与、家族信託が、いずれも難しくなる場合があります
- 「診断名がついたかどうか」ではなく、その契約を理解して判断できるかが見られます
- 不動産では、決済のときにご本人の意思が確認できなければ、登記が進みません。ご家族だからという理由だけで、ご本人に代わって署名することはできません
- 以前に作成された委任状があるからといって、それだけで売却や登記が進められるとは限りません。委任状の内容、作成されたときの状況、いま代理権があるかどうかの確認が必要です
- 止まったあとの主な制度が法定後見です。申立ての実費は限られますが、後見人などへの報酬は、家庭裁判所の審判によって継続して発生する場合があります
- 期間は案件によって大きく異なりますが、私が関わった案件では、手続きと登記が終わるまでに半年ほどかかり、そこからようやく売却のスタートでした。ご自宅の場合は、買主が見つかったあとも家庭裁判所の許可が得られることを条件として契約することになります
- 親族が後見人に選ばれるとは限らず、原則として途中でやめることもできません
- 後見人がついても、相続税対策としての生前贈与は原則できず、ご本人の居住用不動産の売却には家庭裁判所の許可が必要です
- 判断能力があるうちなら、任意後見で、任せる相手と内容を自分で決められます
このシリーズで「元気なうちに」と繰り返しお伝えしてきたのは、節税のためだけではありません。選べる状態を、できるだけ長く保っておくためです。
ご家族にとっていちばんつらいのは、目の前に必要なお金があるのに、動かせないという状態だと思います。そうならないように、いま手を打てることがあります。
個別のご相談について(無料・月5件まで)
ご相談では、いまの状況を整理し、「何を・どの順番で・どの専門家に頼めばよいか」を一緒に考えます。ご自宅の売却が絡む場合は、いつ、どういう順番で進めるべきかを、不動産の実務の側から整理してお伝えします。
なお、後見の申立てや任意後見契約など、法律上の個別判断が必要な場面は弁護士・司法書士、相続税の試算や申告は相続を主に扱っている税理士、不動産の売却は不動産業者へおつなぎします。私自身が、法律や税務の判断をすることはいたしません。
一人で対応しておりますので、ご返信までに2〜3日いただくことがあります。また、じっくりお話をうかがうため、月5件までとさせていただいています。
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増島正典(ますじま まさのり)
1級ファイナンシャル・プランニング技能士/CFP®認定者 / 不動産・相続コンサルタント
不動産業界32年の経験をもとに、相続・老後のお金の不安をわかりやすく解消します。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法務・税務判断を保証するものではありません。手数料や制度の取扱いは改正されることがありますので、具体的なご相談は、法律面は弁護士・司法書士、税務は税理士、不動産の評価・売却は宅地建物取引業者など、内容に応じた専門家へご確認ください。

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