前回は、住宅ローンの団信のお話をしました。家を買うことは、家族を守る備えになる、というお話です。今回は、その備えがまだ始まっていなかったときのお話です。
私が実際にお手伝いした事例をもとに、お話しします。個人が特定されないよう、家族構成や時系列などを一部再構成しています。1級ファイナンシャル・プランニング技能士・CFP®の増島正典が、お話しします。
「夫が、急に亡くなったんです」
20年以上前、不動産会社で、住宅の売買の仲介をしていたころのことです。
あるマンションの売買契約を、お手伝いしました。私は、売主さまと買主さまの両方を担当していました。買主は、40代後半のご主人です。住宅ローンの融資の承認も下り、あとは引き渡しの日を待つだけでした。
契約から1か月ほどたったある日、買主の奥さまから電話がありました。
「夫が、急に亡くなったんです。」
すぐにご自宅にうかがい、お悔やみを申し上げました。「契約のことは、落ち着いてからで大丈夫です。」そうお伝えするのが、精いっぱいでした。
契約は、終わりませんでした
翌日、売主さまにご連絡しました。
しばらくして、売主さまからお電話がありました。弁護士に相談されたそうです。
「買主が亡くなった場合は、相続人が買主の立場を引き継ぐので、契約はそのまま進めてほしい。」
売買契約は、当事者が亡くなっても、それだけで終わるわけではありません。契約上の立場は、権利も義務も含めて、相続人に引き継がれます。売主さまのお話は、その仕組みに沿ったものでした。
「解約させてください」
葬儀が終わって1週間ほどたったころ、奥さまから「一度、お会いしてお話ししたい」とご連絡がありました。奥さまのお兄さまも、同席されました。
「主人が亡くなったいま、この契約は進めたくありません。解約させてください。」
ご主人が借りる予定だった住宅ローンは、ご主人ご本人の収入や健康状態をもとに、承認されていたものです。そのご主人が亡くなると、予定していた住宅ローンで代金を支払うことは、難しくなります。
融資が受けられなかったときなどに契約を白紙に戻せる、「ローン特約」という定めもあります。けれども、この契約では、ローン特約の期限がすでに過ぎていました。その期限までに、住宅ローンの融資承認も出ていました。そのため、当時の契約条件では、ローン特約による解除は難しい状況でした。売主さまも、ローン特約による解除は認められない、というお考えでした。もし、ローン特約の期限の前であれば、解除できたのではないかと、私は思っています。
私は、奥さまにご説明しました。当時は、手付解除の期限の前でした。相手方が契約の履行に着手していないなど、手付解除の条件を満たしていれば、買主側は、すでに支払った手付金を放棄することで、契約を解除できます。今回の契約では、その方法による解除が可能でした。手付金は、代金の1割でした。
奥さまは、しばらく黙ったあと、こうおっしゃいました。
「できれば、手付金を返していただけないでしょうか。」
「契約は、契約です」
私は、奥さまのお気持ちを、売主さまにお伝えしに行きました。
売主さまは、静かにこうおっしゃいました。
「亡くなられたのは、お気の毒です。ただ、契約は契約です。手付解除でお願いしたいと思います。」
売主さまにも、ご事情があります。売却の予定を立て、次の住まいや資金の計画を考えておられたはずです。契約の内容に沿った求めでした。
奥さまの側も、弁護士に相談されました。数日後、奥さまからお電話がありました。
「やっぱり、手付解除で、解約させてください。」
泣いてはおられませんでしたが、お声には、あきらめと疲れがにじんでいました。マンションは、その後、ほかの方にお買い上げいただきました。
法律と気持ちは、いつも同じ方向を向くとは限りません
私は、売主さまと買主さまの両方を担当していました。双方の事情を伺いながら、それぞれの意向を伝える立場にありました。どちらのお気持ちも、分かる立場でした。
契約は、守られなければなりません。けれども、その向こうには、ご家族の暮らしがあります。法律と気持ちは、いつも同じ方向を向くとは限らない。この一件で、私はそのことを強く感じました。
ご親族が、契約を引き継いだ家もありました
32年この仕事をしてきて、引き渡しの前に買主の方が亡くなったケースに、何度か立ち会いました。
別のケースでは、亡くなった買主のご両親が、代金を現金で支払われ、契約はそのまま進められました。
相続人が契約上の立場を引き継いだ場合、契約を解除するだけでなく、資金を確保できれば、購入を続けることも考えられます。ただし、住宅ローンを利用する場合は、相続人自身が融資を受けられるかどうかなど、別途確認が必要です。
どちらを選べるかは、手付解除の期限や契約の内容、そして資金を用意できるかどうかによって変わります。なお、誰が代金を支払い、誰が物件を取得するかによって、相続税や贈与税の扱いが変わることがあります。くわしくは、税理士にご確認ください。
制度の話:契約の途中で、当事者が亡くなったら
ここから、制度の話をします。当時と今とでは、取引の慣行が変わっているところもあります。ここでは、現在の一般的な考え方でご説明します。具体的な扱いは、それぞれの契約の内容によって異なります。
契約上の立場は、相続人に引き継がれます
- 不動産の売買契約を結んだあとに、買主が亡くなった場合、買主の立場(物件を受け取る権利と、代金を支払う義務)は、原則として相続人に引き継がれます
- 売主が亡くなった場合も、売主の立場(代金を受け取る権利と、物件を引き渡す義務)は、原則として相続人に引き継がれます。ただし、所有権移転登記などに必要な手続きが増え、引き渡しが遅れることがあります
手付解除
- 売買契約では、契約のときに手付金を支払うのが一般的です
- 手付解除とは、買主は支払った手付金を放棄し、売主は受け取った手付金の倍額を支払うことで、契約を解除できる仕組みです
- ただし、相手方が契約の履行に着手したあとは、原則として手付解除ができません。また、契約で手付解除の期限などを定めている場合は、その内容も確認する必要があります
- 手付解除ができない時期に、代金を支払えずに契約を続けられなくなると、契約の内容によっては、違約金などの問題になることがあります
ローン特約
- ローン特約とは、住宅ローンの承認が得られなかった場合などに、契約を白紙に戻せる特約です
- ローン特約には、融資が承認されなかった場合に契約が解除されるものや、一定の条件で解除できるものなどがあります。多くの場合、ローン特約で解除できる期限が定められています。使えるかどうかは、契約で定めた融資の条件や解除の期限などによって異なります。契約の前に、条項の内容をよく確認しておくことが大切です
団信は、融資が実行されるまで始まりません
前回お話しした団信は、住宅ローンを借りた人が亡くなったときに、残りのローンが返済される仕組みです。
ただし、団信の保障開始日は、一般的に住宅ローンの融資実行日です。加入承諾などの条件によって異なる場合があるため、実際の保障開始日は、金融機関や保険の契約内容で確認する必要があります。
そのため、売買契約を結んでから融資が実行されるまでの間は、通常、住宅ローンの団信による保障は、まだ始まっていません。
今回のご主人が亡くなったのは、住宅ローンの団信による保障が始まる前の、この「すき間」の時期でした。
元気なうちに、できること
不動産の売買は、契約から引き渡しまで、1か月から数か月かかるのが一般的です。その間に何かが起きても、ご家族が落ち着いて判断できるように、次のことをお伝えしたいと思います。
- 大きな契約の中身を、家族と共有しておく。契約書がどこにあるか、手付金の額、手付解除の期限、ローン特約の条件と期限、違約金の定め。家族が知らなければ、期限のうちに判断することができません
- 契約から引き渡しまでの「すき間」を知っておく。団信の保障開始日は、一般的に融資実行日です。その前の期間をどう備えるかを、すでに入っている生命保険の内容なども含めて確かめておきます
- 手付金の額は、無理のない範囲で決める。手付解除をするときに放棄することになるお金です。今回は、代金の1割でした。金額の決め方は、仲介する宅地建物取引業者とよく相談してください
- 売る側も、備えておく。高齢になってから家を売る場合、引き渡しの前に売主が亡くなると、相続人が手続きを引き継ぐことになります。家族と話し合い、売却の予定を共有しておきましょう
- 困ったときは、早めに専門家に相談する。手付解除やローン特約の期限は、待ってくれません。契約の扱いに迷ったときは、早めに弁護士などの専門家にご相談ください
まとめ
- 不動産の売買契約を結んだあとに当事者が亡くなっても、契約はそれだけで終わるわけではありません。契約上の立場は、原則として相続人に引き継がれます。買主でも売主でも同じです
- 解約するには、手付解除などの方法があります。手付解除は、期限だけでなく、相手方が契約の履行に着手していないかなどの条件も確認が必要です。手付解除ができない場合は、契約の内容によっては違約金などの問題になることがあります
- ローン特約を使えるかどうかは、契約で定めた融資の条件や解除の期限などによって異なります
- 団信の保障開始日は、一般的に融資実行日です。売買契約から融資実行までの間は、通常、住宅ローンの団信による保障はまだ始まっていません
- 相続人が資金を確保できれば、購入を続けることも考えられます。ただし、住宅ローンが相続人に引き継がれるわけではないため、融資を受けられるかどうかなどの確認が必要です
- 大きな契約を結んだら、契約の中身を家族と共有しておくことが大切です
契約は、人が亡くなっても止まりません。止まらない契約の前で、残されたご家族が判断できるように。大きな契約ほど、家族と中身を分け合っておいてください。それが、この回でいちばんお伝えしたいことです。
個別のご相談について(無料・月5件まで)
ご相談では、いまの状況を整理し、「何を・どの順番で・どの専門家に頼めばよいか」を一緒に考えます。住まいの購入や売却、住み替えをどう進めればよいか、契約の前に何を確かめておけばよいかなど、これまでの経験をもとに、整理してお伝えします。
不動産の売却価格については、一般的な相場の考え方を整理したうえで、具体的な価格査定が必要な場合には、宅地建物取引業者へおつなぎします。
なお、遺言書の作成や後見の申立てなど、法律上の個別判断や手続きが必要な場面は、内容に応じて弁護士・司法書士などの専門家へ、相続税の試算や申告は相続を主に扱っている税理士、不動産の売却は宅地建物取引業者へおつなぎします。私自身が、法律や税務の判断をすることはいたしません。
一人で対応しておりますので、ご返信までに2〜3日いただくことがあります。また、じっくりお話をうかがうため、月5件までとさせていただいています。
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増島正典(ますじま まさのり)
1級ファイナンシャル・プランニング技能士/CFP®認定者 / 不動産・相続コンサルタント
不動産業界32年の経験をもとに、相続・老後のお金の不安をわかりやすく解消します。
※本記事は一般的な情報提供を目的としたものであり、個別の法務・税務判断を保証するものではありません。ご紹介した事例は、関係者が特定されないよう、内容を一部変更しています。具体的なご相談は、法律面は弁護士・司法書士、税務は税理士、不動産の売却や価格査定は宅地建物取引業者、不動産鑑定評価が必要な場合は不動産鑑定士など、内容に応じた専門家へご確認ください。

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