介護施設に入った母の実家を売却し、費用に充てたい──。
そう考えるご家族は年々増えています。しかし「家を売る」という行為の裏には、多くの方が知らない”契約の壁”が存在することがあります。
今回は、実際に私が経験したご相談をもとにお伝えします。
一本の電話から始まった
春のやわらかな陽射しが差し込む午後でした。事務所の電話が鳴り、落ち着いた男性の声が聞こえてきました。
「母が介護施設に入っています。もう自宅には戻れそうにありません。施設の費用もかかるので、実家を売却したいのですが相談できますか?」
最近、このようなご相談は珍しくありません。親が施設へ入居し、空き家になった実家を売却して介護費用に充てたい──ご家族として自然な考えです。しかしこのご相談は、単なる不動産売却では終わりませんでした。
施設で出会った、穏やかなお母さま
後日、息子さんと一緒に施設を訪問しました。静かな廊下には消毒液のかすかな香りが漂い、遠くの食堂から利用者の話し声がのんびりと聞こえてきます。
窓際の椅子に腰かけたお母さまは、白髪をきれいに整え、薄いカーディガンを羽織っていました。穏やかな表情で微笑んでくださり、一見、特に問題があるようには見えません。
しかし、不動産売却には確認しなければならないことがあります。所有者本人が契約の内容を理解し、自らの意思として判断できる状態かどうかです。私はお母さまにお願いしました。
「お名前を書いていただけますか?」
お母さまはペンを握りました。でも、その手は大きく震えています。ゆっくりと文字を書こうとされましたが、途中で止まってしまい、最後まで名前を書くことができませんでした。会話を続けても、少し前に話した内容をすぐに忘れてしまう場面が見られました。
息子さんは、少し寂しそうな表情でその様子を見守っていました。
医師の言葉で、現実が見えてきた
不動産売買は重要な法律行為です。施設の主治医に状況を相談すると、慎重な表情でこう話されました。
「日によって状態に差がありますが、不動産売買のような重要な契約内容を理解して判断することは、難しいでしょう。」
この言葉で現実がはっきりしました。お母さまは家の所有者ですが、その時点では法律上、売買契約を結べる状態にはなかったのです。
「家を売るだけなのに、裁判所の手続きが必要なんですか?」
私が成年後見制度について説明すると、息子さんは驚いた表情でそう言いました。多くの方が同じ反応をされます。「家族のためにやっているのだから問題ない」と思われるのです。
しかし法律は、判断能力が低下した方の財産を守るため、本人に代わって財産管理・契約行為を行う人を家庭裁判所が選任する仕組みを設けています。これが成年後見制度です。
息子さんは「母の将来の安心のために」と決意され、当社が提携する弁護士をご紹介。家庭裁判所への申し立てが始まりました。
後見人選任まで、6か月の道のり
申し立てにはまず主治医の診断書が必要です。さらに戸籍謄本・住民票・財産資料・不動産関係資料・親族関係図など、多くの書類を用意しなければなりません。息子さんは仕事の合間を縫いながら資料を集め、弁護士と何度も打ち合わせを重ねました。
家庭裁判所への申し立て後も、審査や面談が行われます。準備期間を含めると、最終的に後見人が選任されるまでに約6か月かかりました。
「正直、こんなに時間がかかるとは思いませんでした。」
息子さんは後にそう話されていました。
息子さんが後見人に──でも、まだ売れない
審査の結果、家庭裁判所は息子さんを成年後見人に選任しました。いよいよ売却活動を開始し、幸いにも購入希望者が現れ、価格と引渡し条件についても合意できました。
通常であれば、このまま契約へ進みます。しかし今回はそうではありませんでした。売却する物件が、お母さまがかつて暮らしていた「居住用不動産」だったからです。
民法の規定:成年後見人による居住用不動産の処分(民法859条の3)
成年後見人が本人の居住用不動産を売却するには、家庭裁判所の許可が必要です。これは本人の生活の本拠を守るための規定で、後見人であっても裁判所の判断なしに売却することはできません。
そこで、まず買主との間で売買契約を締結しました。ただし契約には重要な条件が付いていました。
「家庭裁判所の許可が得られることを停止条件とする」
つまり、契約は結ぶものの、裁判所の許可が下りるまで効力は発生しない仕組みです。
裁判所の許可、そして完了へ
売買契約書と売却の必要性を説明する資料を添えて、家庭裁判所へ許可申立てを行いました。裁判所は「本当に売却が必要か」「価格は適正か」「本人の利益を害しないか」を慎重に審査します。
そして、家庭裁判所から売却許可が下りました。停止条件が成就し、売買契約が正式に効力を持つ瞬間です。その後、決済と引渡しが無事に完了しました。
売却代金はお母さまの財産として適切に管理され、施設利用料・医療費・将来の生活費として活用されることになりました。
すべての手続きが終わったとき、息子さんはほっとした表情でこう話されました。
「家を売るだけだと思っていました。でも、母の財産を守るための制度だったんですね。」
その言葉が今でも印象に残っています。
「今が、一番の準備のタイミング」
親が施設に入り、空き家になった実家を売却したい──そのとき本当に大切なのは、「いくらで売れるか」よりも、「親が契約できる状態かどうか」です。
今回は成年後見制度で対応できましたが、判断能力があるうちに準備できていれば、より柔軟な選択肢もありました。
元気なうちに検討できる3つの選択肢
- 家族信託──信頼できる家族に財産管理を任せる契約
- 任意後見契約──判断能力が低下したときのために、あらかじめ後見人を決めておく
- 財産管理契約──日常的な財産管理を第三者に委託する
※ 家族信託・任意後見契約・財産管理契約の設計・締結には、司法書士・弁護士などの専門家へのご相談をおすすめします。本記事は一般的な情報提供を目的としており、個別の法的アドバイスを行うものではありません。
「まだ元気だから大丈夫」──その今が、一番のタイミングです
転ばぬ先の杖は、親が元気に笑っている「今日」に用意するものです。
ご家族で、財産管理や将来の介護についてぜひ話し合ってみてください。
その小さな話し合いが、将来の大きな安心につながります。

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