玄関のチャイムが鳴ったのは、ちょうど
雨が止んだ午後3時だった。
ドアを開けると、そこには落ち着いた
雰囲気の初老の男性が立っていた。
濡れた傘をたたみながら、彼は一言、
こう切り出した。
「遺言書を作りたいんです。」
彼の名はTさん。70代半ばで、痩せ型、
眼鏡の奥の目は静かに物を見つめてい
た。
淡々と語られる人生の断片には、いくつ
もの波があった。
数日後――
お宅を訪ねた。
静かなリビング。
壁には古い家族写真。
そこには、若き日のTさん、
少し年上の奥さん、
そして小さな女の子と男の子。
けれど、写真のようには家族の関係は
続かなかった。
「娘はね、二度離婚して、今三度目の
結婚をしている。旦那とは、私たちの
家で同居してるんですよ」
「息子は、海外です。もう20年・・・
帰ってきていません」
私は彼の話を黙って聞いた。
どこかに後悔や寂しさが滲んでいたけれ
ど、それを表に出す人ではなかった。
「家は、息子に相続させたいんです」
「娘には・・・相続するなら、私の姓を
名乗ることを条件にしたい」
「揉め事は嫌なんです。だから法定相続
分で分けるように遺言に残したい」
Tさんの声は穏やかだったが、確固たる
意思があった。そこで、私は彼の希望を
整理し、財産目録を作成。弁護士にも依
頼し、内容の確認も終えた。そして、
最後は「自筆証書遺言」でまとめるつも
りだと笑った。
「人生の終わりくらい、自分で書いてみ
たくてね」
そのとき私は、ふと胸が締め付けられる
ような感覚に襲われた。なぜか「間に合
うのか?」という予感が頭をよぎったの
だ。
そして数ヶ月後――
一本の電話が鳴った。
「Tが、亡くなりまして・・・」
あまりに突然だった。
遺言書は、作成されなかった。
あの丁寧に積み上げた準備は、未完の
ままだった。
【その後】
相続人となった娘さんと海外にいる息子
さん。
娘さんは葬儀の対応に追われながらも、
何度もこう尋ねた。
「父が、何か残していなかったでしょう
か? 家のこと・・・どうしたかった
のか・・・」
けれど、私は何も言えなかった。
私が知る「希望」は、法的に何の効力も
持たない。言葉にすれば、誤解を生む
可能性すらある。
【ビフォー・アフター】
Before:きちんと準備したい。家族が
揉めないように、自分の意志を
伝えたい。
After:意志はあったが、形にならなか
った。結果、残された家族は
「父がどうしたかったのか」を
知ることもできない。
【あなたへ伝えたいこと】
遺言は、最後の「声」です。
言葉にしなければ、どんなに強い想い
も、時の流れに消えてしまいます。
少しでも「いつか書こう」と思ったら、
それが「今」かもしれません。
「あとで」が来ない日も、あるのです。
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