静かな午後だった。
カーテン越しに春の陽が差し込み、
母が淹れてくれたお茶の湯気がゆらゆら
と揺れていた。
「・・・お兄ちゃんたちが、一緒に住み
たいって言ってるの」
その一言で、心がざわめいた。
実家のリビング。母が一人で住んでいる
築30年の家。
父が亡くなってからは、相続登記をしな
ければと、ようやく腰を上げたところだ
った。
その矢先、兄夫婦が「住まわせてほし
い」と言ってきたのだ。
兄夫婦は家もなく、年金だけの生活。
「困ってるなら仕方ないか・・・」
そう思った瞬間もあった。
けれど、私は忘れていなかった。
あの数年間、父の介護をほとんど一人で
担った日々を。
病院のベッドの横で、酸素マスク越しに
かすかに聞こえる父の声。
手を握った感触。体温の変化。
あのときの経験は、言葉にできないほど
大きなものだった。
登記に必要な戸籍をかき集め、法務局の
窓口で何度も質問を繰り返した。
「寄与分って、主張できるんでしょう
か?」
専門家に相談しながら、私は心を決め
た。
「兄さん、私、70%の持ち分を主張さ
せてほしい」
一瞬、兄の顔が曇った。
けれど、数日後には「65%なら」と
譲歩の話がきた。
「それでいい。私にとっては誠意の問題
なんだから」
そう答えたとき、心は少し軽くなってい
た。
だが――
「この家は、あんたにやるって言ったで
しょ!」
母の声が響いたのは、まさにその翌日だ
った。
怒り、困惑、戸惑い。
兄夫婦と一緒に暮らすつもりだった母
が、突然の心変わりをしたのだ。
結局、話し合いは振り出しに戻った。
でも、私ももう後には引けない。
専門家を交え、兄と再度向き合い、やっ
との思いで「65%」の持ち分で合意が
成立した。
手のひらに残った登記識別情報の紙。
それは単なる書類ではなかった。
過去の時間と努力、感情の積み重ねが
カタチになった証だった。
今、同じような立場にいる誰かに伝えた
い。
相続は、財産だけでなく「感情」も引き
継ぐものだということ。
そして、その感情に蓋をしないで、丁寧
に扱うことが、後悔のない選択へとつな
がると、私は信じている。
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