――父の相続が終わった“はず”
だった、あの日までは。
あれは、梅雨が明ける直前の
蒸し暑い夜でした。
リビングの窓を開け放ち、
扇風機の風にあたりながら
缶ビールを開けたそのとき、
スマホが鳴りました。
画面に表示されたのは――兄の名前。
数年前に終えたはずの父の相続。
兄とは一度、激しく意見がぶつかり、
それきりほとんど連絡を取ってい
ませんでした。
「いまさら、なんの用だよ…」
そう思いながら通話ボタンを押すと、
耳に飛び込んできたのは、
怒気を含んだ兄の声。
「お前、あのときの遺産、
どれだけ持ってったと思ってんだ!
納得してないんだよ、俺は!」
耳がキーンと鳴るような
感覚になりました。
――あの分割協議、
兄も判を押したはずだ。
俺が一方的に得をしたわけでもない。
感情が、記憶が、理屈を飛び越えて
揺さぶられる。
父の死。そして相続協議の修羅場。
数年前、父が亡くなったとき、
相続人は兄と私のふたりだけ。
遺言はなく、財産は自宅と少しの預金。
母はすでに他界していたため、
兄と2人で分割協議をするしか
ありませんでした。
兄は当初、
「家は売って現金を折半でいいだろ」
と強く主張。
でも、私は父の家に思い入れがあり、
できれば住み続けたかった。
話し合いは何度も平行線。
最終的に、私は家を取得する代わりに、
預金の大半と、さらに自分の貯金を
兄に渡すことで合意に至ったのです。
公正証書を使って、分割協議書も
きちんと作成した。
あの電話の真意は…?
「じゃあ、お前の取り分、
現金だったよな。いま、ないのか?」
「……なんの話だよ、今さら」
兄の声が震えていました。
怒っている、というより、
何かに怯えているような気がしました。
私は深呼吸をしてから、
ゆっくりと問い返しました。
「兄貴……まさか、お金、
誰かに貸したのか?」
しばらく沈黙が続いた後、
兄は小さくつぶやきました。
「……悪いやつに騙された。
俺、もうダメかもしれん」
「分けたあと」の人生にも、責任がある?
私は、兄を責める気には
なれませんでした。
相続の取り分は平等だった。
でも、そのあとの“使い方”までは
誰も教えてくれない。
兄は孤独で、
弱っていたのかもしれない。
その後、弁護士に相談し、
兄からの法的請求は成立しないことを
確認しました。
ただ、それで「はい終わり」には
できなかった。
兄を救うために、私はもう一度向き
合うことを選びました。
相続は、分けて終わりじゃない。
私はこの出来事を通じて痛感しました。
相続とは、「財産の分け方」
だけではなく、その後の人生設計や
家族関係までを含んだ“大きな流れ”
なのだと。
私たちが見落としがちなのは、
「相続のあと」。
分けたあとこそ、家族としての関係が
試されるのかもしれません。
あなたにも、こんな「その後」が
訪れるかもしれない。
もし、すでに相続を終えていた
としても。
もし、まだその準備段階だった
としても。
「財産」だけでなく、
「家族とのつながり」についても、
考えるタイミングがきているのかも
しれません。
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