■ はじめに:ある日、一本の電話から始まった
「もう歳だから、そろそろ施設に入ろう
と思うの」
そんな一言から、今回の相談は始まりま
した。
電話の主は87歳の女性。
静かな声でしたが、その奥に“何かを決
意した”ような響きがありました。
私はこれまで数多くの不動産売却に立ち
会ってきましたが、高齢の方のご相談
は、単なる売買の話ではない
──今回もまさにそうでした。
この記事では、実際に私が経験した“高
齢者の不動産売却相談”の一部始終を、
ストーリー形式でお伝えします。
どんな現場で、どんなことが起きるの
か。そして、そこから私たちが何を学べ
るのか。
ぜひ最後までお読みください。
■ リビングに差し込む午後の日差し──最初の面談
初めてご自宅に伺った日、
そこは古くても丁寧に住み継がれてき
た、あたたかみのある住まいでした。
Mさん(仮名)はこう語りました。
「子どもたちにも心配かけてね…。
もうひとり暮らしも限界。施設に
移ろうと思ってるの」
家の中には滑り止めのシートや手すりが
あり、“安全に暮らそう”という工夫が
見てとれました。
でもその一方で、
「この家には、たくさんの思い出がある
のよ」
と、Mさんは何度もつぶやいていまし
た。
私は、売却という重い決断を下すために
はご家族の理解と同席が必要だと判断
し、「次回はご家族の方もご一緒に」と
ご提案しました。
Mさんは少し戸惑いつつも、「そうね、
話してみるわ」と快く応じてくれまし
た。
■ 揺れる心、交錯する家族の声
次回の面談には、長男の方が同席されま
した。
誠実で礼儀正しい方で、母親を気遣う様
子が印象的でした。
売却の流れ、必要な費用、相場などを
ご説明しましたが、Mさんの表情には、
次第に迷いがにじみ出てきました。
「私が決めていいことなんだけど…」
「でも…この家は私のすべてだったの
よ」
──言葉に詰まるMさんを前に、ご家族
も私も、ただ静かに寄り添うことしかで
きませんでした。
■ 「契約します」からの急展開
ある日、Mさんから緊急の連絡が入りま
した。
「この家は私の名義なんだから、私が
決める。契約したいの」
私はすぐに契約書類を持って再訪問。
Mさんはサインまで済ませ、あとは印鑑
を押すだけ…というタイミングで、電話
が鳴りました。
お嬢さんからの電話でした。
その後、Mさんはこう言いました。
「…娘に“まだ契約する時じゃない”
って言われたから、今日は押さない
わ」
あの瞬間、Mさんの“自分の意思”が、
ご家族の声に揺らいでしまったのです。
■ 決断できない、でも焦っている──そして私たちが出した結論
その後も、何度も「来てほしい」と電話
がありました。
しかし、「家族が揃っているときでなけ
れば話ができない」という条件付きでし
た。
Mさんの気持ちは日に日に揺れ動き、
その場その場で結論が変わってしまうよ
うな状況が続きました。
私たちはついに、こう伝えることにしま
した。
「このままでは、責任あるお手伝いが
できません。今回はご縁がなかった
ということで…」
■ この経験から学んだこと
この一件は、単なる売却相談ではありま
せんでした。
高齢者の不動産売却において本当に大切
なこと──それは、以下の3つだと実感
しています。
✅ 1. 本人の“真の意思”を見極め
ること
「売りたい」と言っていても、それが本
心でないことがあります。
家族への遠慮、焦り、寂しさ…いろんな
感情が混ざっていることが多いのです。
✅ 2. 家族全体の“合意形成”が必須
名義は本人でも、実際の決断には家族
の理解と同意が不可欠です。
子ども世代の意見が真っ向からぶつかる
こともあります。
✅ 3. 不動産の取引以上に、“心の
サポート”が求められる
契約書や手続きは「作業」ですが、その
前にあるのは「気持ちの整理」。
そこを支えられる存在であるかどうか
が、私たち専門家の真価です。
■ おわりに
Mさんのように、住み慣れた家を手放す
という選択に向き合う高齢者は、今後ま
すます増えていくでしょう。
でもその決断は、思った以上に繊細で複
雑です。
だからこそ私たちは、不動産のプロとし
てだけでなく、人生の節目を支える“相
談者”としての姿勢を忘れてはならない
──そう感じたできごとでした。
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